沈黙〜サイレンスを見て

自分自身に興味深いところがいくつかあったので、記録します。基本的にネタバレ全開ですので、これから観ようという方は読まないほうが良いです。

昨年スリランカで、ドイツ人とオーストリア人に「あなたの宗教は何?」と尋ねられ、改めて聞かれると何だろう?と、とりあえず不自由な英語を組み立てつつ、思いつくまま説明し、自分の口から出てきた言葉で「あれ?」と気づいてまた考えて、つらつら話していたのを思い出しました。言語が不自由だと、結果的に言いたいことは結晶になってるなあと思いつつ。











一番は、ロドリゲスの理性とキチジローの身体性について考え続けているということと、通詞(通訳)の妙な安定感が不思議だったこと。

あの安定感は浅野忠信によるものなのか、「当事者ではない、仲介者」という職業の属性によるものなのか、まだわからないけど、出てくるとホッとした。

キチジローは窪塚洋介の目があって、純粋に身体性と捉えることができる。「悪人なら、悪の美しさというものもあるが、ただのダメ人間」に、ならない。他の人では無理だ。

しかし理性はやっぱり厳しいものだわ。一番大変だな、と改めて思う。アンドリュー ガーフィールド、演じててメンタルやられそうなんだが(汗)。「その人がいた」って感じの、静かにすごい俳優さんだった。

そして「日本人は自然しか信仰しない。キリスト教は根づかない。」で、ですよね〜と同意する。日本人というか、私だけど。隠れ小屋からちょっとだけ外に出て、いっとき太陽を浴びて幸せそうな司祭二人を見てもそう思うんだよな。

しかし、字幕を読んでると、豊穣な映像がどんどん過ぎていってしまうのが辛かったです。週末もう一度見に行く予定です。


以下は観た直後のランダムなメモ書きです。


肚というのか腸にきた。ジリッと縦に反応が。胸や鳩尾が締め付けられたり張り裂ける感じは無かった。こういう静かな極限状態はむしろ落ち着く、というか、その先に行ってみたくなるものだと。なんか場違いっぽいけれど、観終わった後、ガッツが湧いてくる。

とはいえ加瀬亮の斬首場面は、もう、来ることがわかる流れだったので、反射的に画面を手で覆った。直視は無理だ。

余談ですが、先日見た「ラサへの歩き方 祈りの2400km」の中で不意打ちでやってきた屠殺場面を思い出した。あれも反射的に手が出た。切る場面は無理。

映画の中で、チベットの屠殺業の男性が「自分はこれまでどれだけ屠殺をしてきたか」と罪の意識を持っていて、それを紛らわすためにアル中気味になっていたところと。

もっと、食べるためとか、祝い事のためとか、「いただきます」という感謝や尊重の念を持ちつつの合理的な行為として行われているものだとばかり思っていたので、そこに葛藤があったとは知らなかった。そして、葛藤があったことに、ちょっとホッとしつつ、そこに罪の意識があるならば、それは屠殺業者だけに係るものじゃないだろう、とか、ぐるぐると。

意外と、笑ってしまった場面もあった。踏み絵を踏んだとき、「今、息が乱れたな」って、心理学実験かよ?とか。「十字架に唾をかけろ」と言われても、あんな状態では口も乾くし唾液も絞り出さなきゃならないし、もうちょっと待てよ、とか。

日本人の日本語による早口の告解を聞く司祭(言ってる言葉を理解しないまま)とか。

人はやっぱりギリギリまで参ると笑ってしまうものだよなあ、とか。泣くことと笑うことって近いです。

ロドリゲスの遺骸の手に十字架を握らせたのは奥さんだよね。ずっと黙ってたのね。知ってたのね。見送る姿がまだ目に残っています。

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