発生・胎生学ワークショップ@京都花背

もう2週間経ってしまいましたが、お休みをいただき、京都でのロルフィング®︎ワークショップに参加してきました。ヒトの受精卵が子宮に着床して胎児になるまでの一部分を、今の自分の身体で、動きで、体験&探求する。というのがテーマの2泊3日。

以下がワークショップの案内文です。

胎生学は、創造の物語です。この3日間の体験ワークショップでは、胎生学(胚)の発達を知る基本的な流動過程を探ります。 Movement、探求、イメージング、瞑想を通して、私たちの、本来のWholenessに触れていきます。私たちのWholenessの深化感覚を養う形状および発生学的力の探求を行います。この探求は、このシステム内の理解を発見したい人に開かれています。 形成の流れは、人類創造の一次発火への入り口を開くことでもあります。 我々は、胚の起源に触れることで、生命力の根底にある力が自分自身を明らかにします。

27名の参加者と、講師陣、通訳、コーディネーター計5名と寝食共に過ごす合宿型。参加者の約半数がロルファーで、半数は様々なバック・グラウンドを持った(基本的には何らかのカラダ関係のお仕事の)方々でした。同じワークをしても、それぞれ目の付け所や気づきを得るところが違ったりして、新鮮かつ面白かったです。

絨毛膜になってみる。卵黄嚢、尿膜、羊膜を感じてみる。なんじゃそりゃ?という感じですよね。私は、それぞれの働きを、イメージで「あるつもり」になって、何というか、、「演じてみて」体験するものだと思ってました。やってみるまでは。

ところがそれらは、今も「ある」んです。その物質自体はもちろんないけれど、演じるのではなく、まさに現れてくる。それを待つ。その機能や質感は直に体験できるものでした。ビックリです。そしてそれは成人の今もとても役立つもので、けれど気づかないと「ない」ものになってて使えない。でも、ある!

(サングラスを額の上にかけながら、「あれ、サングラスがない、ない。どこだろ??」と探すようなものかなあと思ったのですが、ちょっと違いますね)

具体的なワークも座学的知識もいろいろ学んだのですが、私にとっての一番の衝撃はそれでした。知覚の問題。正直言うと最近は、「感じること」「気づくこと」「心と身体はつながっていること」に少々飽きていました。「まあ、そうなるよねえ」というような、先が見える気になってしまう感じに。

ところが今回、「あるのに、ない。」「なかったはずのものが、ある。」ということ(状態)を体験して、「感じないこと」「気づかないこと」「心と身体がつながっていないこと」に、俄然興味が湧きました。

ないものと決めず、空想・妄想で作り出さず、気づかないことにもオープンでいること。ただ現れてくるものを、鋳型に押し込めず、ただ体験してみることは、ときに大変ですが面白いです。それをもっと落ち着いてできるような胆力が欲しい。肉体を、もっと使っていきたい。とも思いました。

今回、講師陣が頼もしかったので、この機会を逃すまい!的に頭の中は質問魔になっていて、「身体と心がつながってないな〜」と実感しながら、現時点で自分が体現できる以上のことを、何で?何で?何で?と聞きまくりでした。積ん読、貯金、タンスの肥やしにはしませんが!

衝撃その2は、人体の音があまりにも賑やかで生々しかったことと、液体感がリアルというよりそのまんまだったこと。セッションの際に私は「自分のカタチの水風船になったつもりで〜」とよく言ってますが、「つもり」というより実際そのまんまでした。

他人の心臓・胸郭エリアの音、お腹〜内臓部分の音を直接耳を当てて聴いてみたのですが、、もうビックリしました。こんな中に数ヶ月いる胎児はうるさくないのかな?と思いましたよ、私は。

そして衝撃その3は、その生々しく賑やかな音を「本人は聴けない」ということ。なんて残念な!!でも、自分の心臓や腹に耳を当てられないですからねえ。。聴診器は使えると思いますが。鏡がなければ自分の顔も後姿も見えない。右手で右手を触れない。のと同じく。

考えてみると、五感って自分を感覚するには制限がありまくりなんです。その機能を使うには(人だけでなく様々な)他者が必要というか、なければ・いなければ不要なんだなあ、という事実。他者がいる・あることを前提に備わってるんでしょうね。。

腹側迷走神経複合体の働き(哺乳類の社会的繋がりを育む副交感神経。トラウマ・セラピーにおいてはトラウマ反応の活性化に対するブレーキの役割も果たす)に続いて、五感も他者がいることを前提としている。そういう仕組みになっているのか、、という喜ばしさと残念さの両方を感じます。

なお、自分の身体の音を「聴く」というか「知る」には、自分が「音そのものになる」という方法がある(というか、それしかないんですが)。そうか!そういうことかーー!と思いました。そうすると、くつろいで横になって聴こうとしたときよりも、鮮明に聴こえる、というか振動が感じられて音になる。

音楽を聴いていて、大好きなギターの音を聴いていて、好きで好きでしょうがないとき、大音量で聴く、曲に合わせて踊る・身体を揺らす、一緒に歌う、演奏する、などしますが、私は音そのものになりたかったことが何度もあります。カタチや質感そのものになりたい。振動に同期することで、いい線行けそうです。

京都・鞍馬の少し奥の「花背」という、杉林に囲まれた山の中。なぜかカメムシがいっぱいいるカメムシ・フレンドリーなところ。朝食前に参加メンバーと山を散策、、というより走って(半ばトレイル・ランニング?)満喫したのは爽快でした。楽しかったです。

人だけでなく様々な「他者」との関係の仕方を再考、探求、再構築したいと思いました。ここでの体験は、これからのセッションにも活かしていきます!

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