「ディザインズ」と「ボーダー 二つの世界」から

ごく最近読んだ漫画と観た映画について、似ている部分で私自身の「平静でいられる許容範囲」の縁がグラついているので記録しておこうと思います。

漫画は、今年アニメ映画にもなった「海獣の子供」の原作者、五十嵐大介の最新作「ディザインズ」 の最終巻。



映画は「ボーダー 二つの世界」という北欧スウェーデンの作品。  

ディザインズ は、遺伝子操作されたHA(ヒューマナイズドアニマル〜人化動物)を廻るお話。ボーダーは、嗅覚で人の感情を嗅ぎ分けることができる税関職員のお話。ともに「異形」と呼ばれる登場人物(?)が軸となるストーリーです。

人は主に視覚で世界を捉えているけれど、カエルは皮膚感覚で、イルカは音で。ボーダーの主人公は嗅覚で感情を捉える。それぞれが知覚する世界は異なっていて、世界の認知の仕方も違う。言ってしまえば人だって、個人個人でそうだと思っている世界は違う。感覚器官の感度も解像度も。2つの作品は、画と映像でそれらをはっきり提示して見せているのがもう凄い。

異形というと昔話やおとぎ話で馴染みはあるし、手塚治虫、藤子不二雄をはじめ、大好きな朝倉世界一の漫画にも普通に出てくるし、妖怪ものなどそのまんまなんですが、多くの場合、現在の自分とはかけ離れたフィクションとして読めるか、むしろ、ほんわか・ほのぼの、笑いもあったりして人間ドラマより和んだりもするんですが、、

今回挙げている2作品は、現実にありそうな、あってもおかしくなさそうな絶妙なリアリティがある上に笑えるところがほとんどなくて、人と他の生物を分けるもの、彼岸と此岸、生死、生殖、美醜、国籍、差別、区別etcの中で、自分自身はどこにいて、どうありたいのかを問われ続けていた、というか問い続けてグラグラしっぱなしでした。

グラつきの詳細を述べると即ネタバレになってしまうので(とくに「ボーダー」は)控えざるをえませんが、まずは「病も生命の無限の可能性の現れ」について。突然変異や、いわゆる奇形と呼ばれるものを含めて、それらは確かに生き延びるための進化の鍵にもなり得るであろうことは理屈の上ではわかるし、それ自体は決して「悪い」ものではないとも思う。

実際、風邪なんかは身体からのちょっとしたSOSだから、薬で閉じ込めるよりも発散させて経過させる方が身体に良いという実感もあるのですが、物凄い画力で描かれるスケールの違いすぎる「病」のその世界は普通に恐ろしく、内臓直撃で吐きそうなほど気持ちが悪い。

ただ、その恐ろしさ気持ち悪さを自ら好んで担っている人(?)がいるというのは、大きな視点で見ると頼もしいことでもあるのかもしれない、というのが「ディザインズ」での話で、もう全てひっくるめて肯定しているという、私にとっては大きすぎるLOVE & PEACE な話で目眩がしそうだった。そんな境地に至れるのは理想だなあと思いつつ、現状の私のキャパシティでは机上の空論でしかない。物語の中でその理想を体現していたのはカエル。両生類ゆえなんでしょうか。

「ボーダー」で物語をつなげる忌まわしい事件も病が引き起こしていると言っていいと思うけれど、こちらは、許容できないものがあることを、身を切る思いで表明していた。その表明をしていたのも人じゃない(でも、そうさせたのは、人とのかかわりから生まれたものだと思う)。

多様性を許容することの意味とそれを実行することの大変さと、許容できないものもあっていいこと。グラグラする体感は「揺さぶられる」や「感動する」に繋がるのか、固まってフリーズしそうなのを、そうならないように現れた反応なのか。両方かもしれませんが、グラグラに気づいていて、そのまま経過させて、落ち着きがやってきた後に自ずと湧いてくるものはなんだろう。

ここで挙げているのはとても大きい話だけど、身近な他者とのかかわりにも繋がってる。もう少し時間をとって眺めようと思います。

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