わからない状態

「わからない状態」には動きがあって、そこに自ら立ち上ってくるものがある。それはたいてい美しいものだ、という実感があります。

人の身体は自然そのもので、わからないことだらけだ。今に留まりにくい心なんて尚のこと。そして、そのわからなさに耐えられず、わかった気になりがち。そこで動きを止めて固定してしまう。

立ち上がってくるものを待てる胆力を育んでいくのは、コツコツと地味な練習、経験を重ねること。「育む」っていうくらいですからね...。毎回の経験を味わって「苦行」とは違う感触に気づけたら、育てること自体が楽しくなるかもしれません。


 ブログ再掲、第2弾。

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2016年4月1日金曜日

わからないままに描くこと

身体性について。先日、NHKの「漫勉」五十嵐大介の回をようやく見ました。見たもの、感覚したもの(*)を、紙とペンで表現できる。私からしてみれば、サラサラと現われてくる線や絵は生き物みたいだった。

見て、感覚することができても、表現にアウトプットするには技術も要る。

「自然はわからないもので、分からないままに描く」「わかるものとして描くと、それは表現できない」といったやりとりが印象的で、「わからないままに描く」というのがどんなものか、少しわかったかもしれない。動きがある、生々しい、蠢くような。

人の身体も自然そのもので、わからないことだらけだ。わかるものとして扱うと、歪みを矯正するとか「正す」方向に向かうんだろう。わからないままに扱うと、自動的に(自然に?)そこから立ち上ってくるものがある。

「わからないまま扱う」というのは、「行き当たりばったり」、「なんの知識も背景もない」というわけではなくて、たとえば解剖生理学の知識を参照はしても、あてはめようとはしないこと。

わからない状態には動きがあって、そこに自ら立ち上ってくるものがある。それはたいてい美しいものだという実感があります。


* 番組では「空気感」という言い方をしていました。

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