「キレイ好き」な人の部屋が「キレイ」だとは限らない

その昔、自称「キレイ好き」な友人の「汚部屋(なかなかのレベル)」へ遊びに行ったときのこと。

私:「『キレイ好き』って、言葉の意味をはき違えてないか? 私の部屋もキレイとは言えないけど、ここまでではないよ。」

友人:「いや、私は間違いなく『キレイ好き』だよ。汚いのが好きな訳じゃないもん。ただ、掃除や整理整頓が面倒でやらないだけ。」

友人の言い分には確かに整合性があって、ちょっと悔しかったです(笑)。

まあ、掃除も整理整頓もしなければ、本人が好きな「キレイな状態」になることもないのですが、それは優先順位の問題で(『面倒さ』のほうが勝る)、本人がそれを承知の上ならば、全然アリな話です。

「いつも部屋がキレイな人」が「掃除好き」とは限りませんしね。「掃除は嫌いだけど、散らかった部屋はもっと嫌い」なのかもしれないし。

身体のことについても、「こうなりたい」という希望と、現実とのギャップはよくあります。

「こうなりたい」という希望へ向けての行動(これまでの習慣をやめてみる、変化を受け入れてみる、新しく何かを始めてみる...などなど)は、ときに大変だったり、面倒だったりしても、基本的には「苦」ではないはずなんです。「こうなりたい」のは他の誰でもなく、自分自身ですから。

もしその行動を苦痛だと感じるなら、自分自身に、他に優先させたいことがあるのかもしれません。そのことに気がつければ、無駄にギャップに悩むこともないと思うのです。

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