そして、どこまで整えたいか?

どこまで身体を整えるか。どこまで統合度を高めるか。どこまで毒素排出するか。どの程度まで掃除をするか。どれくらい鍛えるか。????

客観的に見れば、どこまでも高められるし、終わりはないし、どこまでも磨き上げられる。生きていれば、いつでも、いつからでも、より良くなる余地はある。

け・れ・ど・も、まず大切なのは、主観的に見て、「自分」が、どこまでやりたいか?
そして、それは何のために?

現在の自分が、" いまの自分の続きとして " 、どの程度変化したいのか? そしてその変化に適応できそうなのか? それはどのくらいのペースで、なのか?

どこまでが適切なのか(妥当+ほんの一歩くらい冒険してみる、とかを含めて)。
それはやはり、本人にしかわからない。

整った身体で、痛くなくなった身体で、何をするのか?「姿勢が悪いから直したい」場合、「姿勢が良く」なったら、何をするのか?

「すること」は、本人にしかできない(私が代わりにウォーキングしてあげることはできない)。

第三者の目や意見は、もちろん参考になったり目安になったりはするけれど、まずは自分で、自分自身の身体を通して(身体の反応を観察、感覚し、気づいて)決めるのがいいと思います。

闇雲に整えるだけ整えても、その整った身体を使わなければ、「使わない状態」に適応していきます(身体は賢く、常に変化し続けているのです)。

「今、自分は何をしたいんだろう? 自分には何が必要なんだろう? いらないものは何だろう?」そこに注意を向けていれば、様々な「使わない機能」がついた家電みたいなこと(無駄に整えるための手間暇資金etc)に、ならなくていいんじゃないかと思います。

「導かれて」「流れのままに」という話もありますが、「導き」全てに従う、「流れ」に全て任せる、というのは、自身の選択の余地は無い訳で、相当の覚悟をなさっている方だと思います。が、おそらくそれは少数派で、たいがい自分自身でその「導き」や「流れ」の中から、取捨選択しているのではないかと。

その取捨選択の基準はどこにあるんでしょう?そこに、ご自身の、「自分が」どこまでやりたいか? 整った身体で何がやりたいのか?が、反映されているのではないかと。

そして、ある変化に適応してきたら、まずはそれを味わってみる。そして、さらに良い状態や別の方向に対する好奇心が湧いてきたら、さらなる探求をしてみたら良いのではないかと。

第三者的視点での「やらなきゃいけないこと」ではなくて、「私が」「やりたいこと」は何でしょう。

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