動的感覚への扉を開く@朝日カルチャー新宿

一昨日、 「動的感覚への扉を開く〜整体法とロルフィングの観点から〜」 という講座に参加してきました。

会場は満員御礼。3時間半があっという間でした。先生方のデモを見て、参加者同士で交換セッションをする。会場に行くまでの往路と、帰路につく復路で、身体の楽さが全く違っていて、改めて「セッション時のインプットは、もっともっと少なくていい」という戒め(?)にもなりました(笑)。

講師のお一人、田畑さんは、これまでにもいろいろ学ばせていただいている大先輩ロルファー。もうお一方は、気響会整体道場を主宰され、興味深い著書も多い、片山洋次郎先生。

講師のお二人に共通するのは、飄々としていること。「(片山先生おっしゃるところの)涼しいかんじ」がすること。強制も矯正もないこと。憧れます。「動的感覚」の、動くものの単位/大きさ(?)が、細かいほど、塊でないほど、隙間もあって、情報量も増えるけど、しなやかに変化に対応もできる、といったらいいのかな?

自分の身体で興味深かったのが、セッション中に顕著な変化を自覚せずとも、帰路〜帰宅後〜そして翌朝と、後になるほどじわじわと変化を実感したこと。つまり、セッション中に顕著な変化を自覚していなかったので、自分で続きの調整をしなかったけれど(わからないからできない)、身体はやっていたということ。

そして、皮膚の外側の環境への対応の変化。帰路の電車の中で隣の人が眠って寄りかかってきました。通常、私はそういうときイラッとして、肘でツンツンとその人を起こすのですが、そのときは、別にとりたてて優しい気持ちでは全然なかったし、寄りかかられていることに気づかなかったわけでもないのですが、「重たいほどでもないし、まあいっか」と、そのままにしておいたこと。そのことに、自分で軽〜く驚きつつ。

それでその日の片山先生のデモを思い出した。最初受け手に触れるけれど、ほとんどの時間は離れて、受け手を感じつつ、それに対する自分の反応のまま好きなように動く(できるだけ自分の身体全体のつながりをもってしなやかに)というもの。

受け手の周りでタコ踊りをしているような、お祭りの踊りのような、ライブ会場の客のような、間違えて部屋に入ってきた人が見たらちょっと怪しい光景に見えるよなあ、というような。ただ、高揚とは違ったもの。間にあるものが変わると人は(物も?)、気分だけでなく身体も変わる。熱狂で盛り上がる方向だけでなく。荒んでギスギスする方向だけでもなく。

「海の水に蓄えられた情報量は途方もない」というようなセリフが「海獣の子供/五十嵐大介」にあるのですが、それを実感する感じ。海の水だけでなく空気もだよなあ、とか、私の一息の積み重ねが環境に及ぼす影響とか。そんななかで「重力の作用は不変」というんだよな、とか。

そんなわけで、これまで知っているのとは異なる層(というのかな?)での変化のしかた、動きを感覚し始める予兆を得たような気がします。そして皮膚の外側の空間、環境への、もうちょっとはっきりした興味。あとからじわじわと心身に響く、頭で考えさせられることも多く、この先拡がりそうな隙間を見つけられたような経験でした(つまり、全然まとめられない、でもとりあえずメモは残しておきたい)。

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