長い一週間

昨日はセッションがなかったので実質休日で、祖母の初七日を迎えた。先週から、とてもとても長い一週間で、やっぱり吐き出しておきたいので私的記録を残す。

先週、お休みをいただいて京都&奈良へ旅行に行った。3年ぶりの一人旅。行く前はあんなことやこんなことをやろうなんて思っていたけれど、実際京都に着くと、結局いつも通りのお気に入りコースに向かうのだった。

暑いと覚悟はしていたが、本当に暑くて辛いけど嬉しい。ようやく汗腺全開で汗も吹き出していい感じ。でも日向はやっぱり辛いというか痛かった。日傘をさして自転車に乗って程よくぐるぐる町を巡る。一見涼しげな下鴨神社の森でも暑い。ビルケンのサンダルは歩きづらく、翌日からはビーサンに変更。やっぱり快適。足底の返しができるのとできないのとでは大違い。

翌日(先週の今日)は、暑さに負けて市バスで移動。こんななかでも修学旅行生で賑わう京都。いくつか好きな寺を見て、夕方はお目当てのカフェで早めの夕飯。のつもりで17:30ごろ到着したけど、パスタセットのパスタを打つところから始まって、のんび〜り、まった〜りと過ごしてスープ、パスタ、おやつ、コーヒーをいただいて2時間過ごす。

店は冷房がなく、私には嬉しい。他にお客さんも入れ替わり立ち代わりやってきたけど、わいわいがやがやとした騒がしさが皆無。そんな場合、普段は落ち着かない私だけど、なぜか全然大丈夫で時間を過ごすのが楽しいとさえ思っていた。出された料理は、思った以上にワイルドな骨太な美味しさで、ものすごい贅沢なもの。なんとなく西表島の「はてるま」で感じたのと近い、生きている味がするご飯。

ここしばらく考えていた、「時間がない」「忙しい」「便利さ」「贅沢」について回答例をもらった感じもあった。ご飯をつくること、食材をつくること、家を維持していくこと、着古した服や破れたシーツなどをどうするか。買えば早いし、きれいに整ったものも手に入る。

けれど、食材を種まいて育てて収穫すること、ご飯をいちから作ること。破れたシーツの大丈夫な部分を使ってパンツを作ること、着古した服をほどいて修繕してリメイクすること。生ゴミを時間をかけて堆肥にして庭に還すこと。家の掃除やメンテをすること。丁寧にやってると、一日はあっという間に経つ。

他にやることが沢山あって、そんなことに時間を割いていられない場合ってあるだろう。会社勤めをしているときなんて、通勤自体で消耗するし、確かにそんなことやってる暇がないって感じだった。けれど。なんのために時間がなくなってたのか?

「飯を食うためには働かなきゃならない」って一面事実なんだけど、そして、人には向き不向きもあるんだけど、食べるためや生活自体に時間や手間ひまかけてていいんじゃないか?待ち時間が長くたっていいんじゃないか?自分なりに工夫するって面白いことだよ。仕上がりが多少不格好でもね。

そんな感じで、ゆるく、でもけっこうガッツリとした体感をもった出来事でもあった時間。帰りに祇園を通ったら祇園祭の神輿洗を終えた神輿が八坂神社に戻ってきて、その様子を見た。ホテルに戻って明日はどうしようといろいろいろいろ考えて、決めかねて、翌朝チェックアウト時間ギリギリまで考えて、結局奈良へ行くことにした。後で聞けば、ちょうどその頃に祖母は「ご臨終です」と告げられていた。

祖母は、前日から具合が悪かったらしく、朝から両親と叔父夫婦が病院に向かい、結果的に4人に看取られた。誰もいないときにひっそりと、でなかったことは、不幸中の幸いか。肺炎がひどく、投薬を兼ねた点滴をしたいものの、もう腕も足も血管がぼろぼろでなす術無く、翌日から鼠蹊部の血管からやりましょうという話を終えたすぐあとだったらしい。孫の勝手な解釈では、祖母はもう嫌だったんだろうなあと思う。

そんなことはつゆ知らず、私はまた暑い中、奈良へ向かって、大神神社へ向かい、参拝後に三輪索麺を食し、桜井駅で自転車を借りて、往復15km弱の石舞台古墳まで行ってみた。暑かったけどなんか達成感もあり(笑)。身体を使った感が満ち満ちて、充実しながらちゃんと疲れていた。

関空に向かうのに大阪のなんばで一度降りて、軽い夕飯用にたこ焼きを買って、通勤時間の南海に乗って、泉佐野駅で乗換時間があったのでホームでたこ焼きを食べ、空港線に乗ってしばらくして、家から母から電話があった。番号表示を見て嫌な予感があったけど(家族が旅行中に連絡してくることは、めったにない)、まさにそのとおりで「おばあちゃんが家に帰ってきたからね」だった。

為す術もないので、そのまま電車に乗って、飛行機に乗って、また電車に乗って、自転車に乗って家について、旅の荷物を片付けてから、祖母に対面。やっと家に帰ってきた。3年前に入院した当初は戻って来れると思っていた。認知症も進んでいたので意思の疎通はなかなかとれなかったけど、祖母本人も戻りたいと思っていた。でも、嚥下が一切できなくて、叶わなかった。

家に居た頃にいた文鳥たち5羽は、昨年、一昨年で全ていなくなっていて(311の震災時に私と一緒に居た5羽でもあった)、昨年新たに迎えた若いつがいの2羽を祖母のところに連れて行って、挨拶させる。文鳥は、とくに半年早くやってきた白文鳥♂は、2〜3日様子がおかしかったそうだ。そして2羽とも、やたらと父にまとわりついていたらしい。

祖母は家に2泊してから通夜へ。久しぶりに会う親戚の方々。久しぶりに話す近所の方々。鳥取から弟一家もひと月早い帰省。翌日は告別式。棺に入っている祖母は、やっぱり全然怖くない。他人の場合、正直やはりちょっと怖い気持ちもあったけれど。火葬をする斎場は祖母の生家の目と鼻の先で、斎場建設の計画が出されたときは、ここに、こんなふうにやってくるとは夢にも思わなかった(思わないほうが不思議と言えば不思議なんだけど)。「生まれたところに帰ってきちゃったよ」と思った。

3年寝たきりだったので、やはり骨はスカスカ。頭蓋骨はしっかりしていた。入院前ならもっと骨密度も高かったろうなあと思う。これを荼毘に付すというのか。49日まで(実際は僧侶の都合でもう少々早まる予定)、お骨は家にあります。おばあちゃんがいないというのは、う〜ん、まだ慣れないかな。後悔しても仕方ないけど後悔することは多々あります。でも、もう辛そうにベッドにいないというのはホッとする、というのも本当の気持ち。

いきなり涼しくなって、異様に暑かった、私の平熱の体温より高い最高気温を記録していた数日が昔のことのようにも思えてしまう。なんだか長い一週間だった。

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